金平美智子さん(89歳) =秋田県山本郡八峰町峰浜

1936年2月に樺太の豊原(現・ユジノサハリンスク)で生まれました。
両親は男鹿市船越の出身です。
小学校1年生の時、男鹿の「船川開拓団」の一員として、両親と6人きょうだいで満州(現中国東北部)に渡りました。
安東省桓仁(かんじん)県の、のどかな田舎町でした。
45年8月15日、小学校にいると、朝鮮人の先生が理由も言わずに「すぐ帰りなさい」と言う。
帰宅すると母に「日本が負けた」と聞かされ、ここにはいられないというので、開拓団で出発しました。
夜中だったように思います。
父は召集されていて不在でした。
最初は現地の人が引く馬車に乗りましたが、途中から歩いて野宿したり、どこかの校舎に泊まったりしました。
ソ連軍の侵攻が始まっていたから、若い女性は髪をそって、顔に泥を塗っていました。
鉱山の街だった通化に落ち着いたのは秋ごろだったでしょうか。
住宅を割り当てられて住みました。
いつ帰国できるか分からず、母や16歳の長兄、14歳の次兄は、現地の人が営む鍛冶屋や農家で働きました。
その後父が船川開拓団を探してたどり着き、再会できました。
でもほとんどの家は男性が戻りませんでした。
〈46年2月3日、旧日本軍の一部が武装蜂起した通化事件が起こる。
中国共産党軍(八路軍)側に鎮圧され、一般市民を含む多くの日本人が殺された。
犠牲者数には資料によって幅があるが、59年の厚生省引揚援護局未帰還調査部のまとめによると約1200人とされる〉
9歳の時でした。
46年2月3日の夜明け、バンバーンと銃撃の音が聞こえた。
凍った窓を拭いて外を見ると、船川開拓団の団長が、下着姿で靴も履かないまま道路の真ん中で八路軍に引っ張られていました。
父が「あっ、団長が連れて行かれた」。
私たちは身支度をするよう言われ、急いで服を着ました。
間もなく八路軍兵士が家に入ってきた。
蜂起した日本の軍人をかくまっているんじゃないかというんです。
「誰もいない」と言っても全ての部屋を開けて回りました。
そして2人の兄が連れて行かれ、別の兵士に父も連行されました。
母とすぐ上の兄、私、弟、妹は外に出されました。
玄関の入り口に板を張られ、釘で打たれたんです。
どこの家もそうでした。
冬は零下20度にもなります。
寒くて寒くて。
母が「夜までこのままでは皆死んでしまう」と言い、私は死ぬのは嫌だと泣きました。
しかし夜になるとまた別の兵士が来て、釘を取って家を開けてくれた。
同じことが何度か続きました。
日本の軍人1人が私たちの家のすぐそばの物置小屋に隠れていたんです。
引っ張り出され、殴られたり、銃剣でたたかれたりして、「うーん、うーん」ってうなりながら私の目の前で息絶えていきました。
汚れた軍服を着た若い人だった。
外でも1人捕まって死ぬまで暴行されているのを見ました。
道路には死体が転がっていた。
とび口で無造作にトラックに積んで運ばれたり、川に捨てられたりしていました。
死んだ後に着物を奪われていた死体もありました。
むごいことをすると思いました。
事件が落ち着いてから、現地の人が「日本人はもっとひどかった」と言っていたことを知りました。
父は4,5日で戻ってきました。
諦めかけていたので、うれしかった。
連行された際、八路軍幹部の馬の調子が悪くなり、父が独学で身に付けていた針治療を施し、何頭か治して釈放されたそうです。
兄たちは1週間以上たって帰ってきました。
げっそりやせていました。
最初は防空壕(ごう)に入れられたそうです。
大勢いる壕に無理やり押し込められて、先に入った人は押されて死んでいく。
2日たつと出されて、煮たコーリャンを食べ、また壕に戻される。
凍った死体の上に立っていたと聞きました。
兄たちは殺される寸前だったと話していました。
ぎりぎりで、八路軍幹部の馬を助けた日本人の息子だと分かり、釈放されたそうです。
喜んだのもつかの間、弟がはしかになった後、寒さで急性肺炎を発症し死んでしまいました。
数えの5歳でした。
間もなくして、隣の家のおばあさんが「孫は満人(現地の中国人)にくれる」って話していたんです。
母親が亡くなり、召集された父親も戻らないため育てられないと。
そしたらうちの母が「私が育てる。秋田に連れて行く」と言ったんです。
9歳と10歳の男の子でした。
少しして、そのおばあさんは亡くなり、周囲の人は「置いていこう」と言ったが、母は渡しませんでした。
〈戦争末期のソ連軍の満州侵攻や戦後の混乱で、開拓移民として入植していた日本人の多くが家族と生き別れた。そのまま中国で「残留孤児」や「残留婦人」となった人が大勢いた〉
ようやく引き揚げ船に乗ったのは46年秋ごろでしょうか。
たくさんいた開拓団も、多くが亡くなりその頃にはだいぶ減っていました。
九州の港に着いて、汽車に乗って上野駅まで来たんです。
そしたら私の実家の名前を呼ぶ男性がいる。
「米屋さんいませんか!」。
その人、男の子たちの父親だったんです。
船川開拓団の行く先を調べて探したんでしょう。
そこで親子が再会できたんです。
その後、男の子が成人して実家を訪ねてきてくれたそうです。
「あの時連れてきてくれてよかった」と、すごく感激していたと聞きました。
本当に恐ろしい目に遭いました。
通化事件を経験した人はもうほとんどいないでしょう。
こんな悲惨なこと、二度とあってはなりません。
秋田魁新報の記事
秋田魁新報のトップページ
通化事件
<以下は白木個人の意見/感想です>
通化事件は日本人が虐殺など被害を受けた事件として知られていますが、その前に日本側が酷いことをさんざんやったために、仕返しされたようです。
戦争とは兵士の銃弾による戦いだけでは無く、何の罪もない一般市民も悲惨な戦いに巻き込まれていきます。
核戦争だけで無く、国対国の戦争自体を無くさなければならないですね。
全地球人民は、国家による徴兵命令を拒否できる権利が基本的人権として保障されるようにはならないものだろうか。
戦争しようにも成り立たないように。
問題は、誰が?どこの組織が?その権利を保障するのか、保障できるのか、ですよね。
宇宙最強兵器を持つエイリアンを期待するしかないのだろうか。
皆様も投稿記事への感想やご意見など何でもご自由にコメントし、コミュニケーションしませんか。
※ この画面を下ヘスクロールするとコメント欄が表れます。
この投稿記事に対して誰でもが何人でも自由にご自分の考えや思ったことをコメントできます。
また、そのコメントに対して誰でもが何人でも自由に返信コメントができます。